世界は今日も美しい

政治と野球のことは書きません。

鷲掴み

あまりにも強い衝撃を受けると

途端に文章って書けなくなるんですよ

それも言葉がなくなったり

足りなかったりするのではなく

 

衝撃を言い表すために

言語化が追いつかず

仮に追いついたとしても言葉が多すぎて

指や思考が追いつかないんですよね

 

気が向いたら書こうとしてたブログも

そないな雑な理由で書けずに

今に至ってて

音楽を聴いたり、人生を振り返ったり

モノを作ったり、健康に気を配ったり

していました

 

書きたいことは山ほどあるけど

どこから始めようか

何が言いたいかって

生の音楽、生の美ってのは

とてつもないんだって

ただそれだけ

 

未だに心拍数の基準値が

ずれてるような気がするんですよ

 

生のコンテンツに触れた時の情動ってのは

一般的に「感動」って言葉をあてがうことが多いですが

ひとくちにそういっても

 

脳天から足の先まで

キュッと鳥肌が立ったあと

ゆるやかな多幸感に浸されて

すべてを吸収しようと感性のスキマや

瞼 鼓膜 全身の毛穴が開かれて

身も心も浄化されるような

深々とした解放感と恍惚とを覚えるような

静の感動といったものと

 

身体中の臓器が覚醒せんとして引き締まり

苦しいほどの衝撃を伴う

ギュインギュインと五感が軋んで

視界がチラつくほどに

感性が稼働する

いわば動の感動といったものとが

それぞれ別個にあるんだなあって

改めて思いました

 

とてつもない感嘆や琴線の揺らぎってのは

殴りつけるとか焼き尽くすとかよりも

肉体的には「鷲掴み」に近いんだって

わかりました

 

痕が残るほどに、痛みが先立つほどに

息の仕方を忘れるほどに

気道、神経系、内臓、脳回路

爪を立てながらまるごと握り込まれる感触

 

のっけから陶酔

骨抜きとはよくいったもので

くにゃくにゃ腰砕け 立つのがやっと

感覚器官だけが何も逃してはいけないと

網膜に映された美しさの1ミリ秒も漏らさないようにとかっ開かれた目

ひと息ひと息すら拾えるほどに意識が鼓膜に向かう

 

静と動、両者の感動は一見

一塊の限界人間が

目を見開いて、呆けたツラを晒してるだけで

さしたる違いがないながら

快感の質は真逆なんだということがわかりました

 

もう結構長いこと生きてるけど

今からでも遅くないので

感を動かしていきたいですね